筆者は、ドラマや映画を全く見ることがありません。現実で精いっぱいであり、“作り物”である物語で消耗する余裕がないのです。それでも、テレビドラマや映画には需要があります。
この記事では、昭和の時代と今を対比させながら、ドラマや映画がもつ役割などについて、考察してみます。
1.昭和という時代における映画やドラマ

昭和の時代、映画は特別な娯楽でした。
映画館は日常から切り離された空間であり、そこでは非現実の世界が広がっていました。
当時は、映像そのものが貴重。遠い国の景色も、壮大な戦争も、切ない恋愛も、スクリーンの中でしか体験できません。日常が質素であればあるほど、物語は人を遠くへ連れて行ってくれたのです。
映画は、現実を忘れるための装置でした。そして同時に、希望や憧れを補給する装置でもありました。
2.現代は「現実の映像」があふれている
今はどうでしょう。
スマートフォンを開けば、世界中の出来事が映像付きで流れてくる。戦争、災害、暴力、怒号、不条理・・・。かつては映画の中でしか見なかったような光景が、現実としてタイムラインに並びます。
しかも私たちは、それをただ受け取るだけではありません。
感想を持ち、意見を投稿し、ときには議論の当事者になります。受動的な観客ではいられない時代なのです。
現実だけで、もう十分に濃い・・・そのような環境で、さらにフィクションの怒りや悲しみまで引き受けることに、疲れを感じる人がいても不思議ではありません。
3.それでも人はなぜ“物語”を見るのか
もちろん、ドラマや映画を愛する人は今も多いでしょう。昭和の時代と異なり、それは単なる娯楽ではないともいえます。
物語には、現実を整理する力があります。現実は混沌としているが、物語は構造を持ちます。始まりがあり、葛藤があり、一定の意味づけが与えられます。
現実では救われない出来事も、物語の中では何らかの形で昇華されます。
だからこそ、苦しいテーマであっても人は見るのではないでしょうか。
暴力や戦争を描く作品でさえ、「意味」を探す営みなのかもしれません。
昭和の時代が「逃避の物語」だとすれば、現代の物語は「理解のための物語」になっている側面もあるでしょう。
4.「見ない」という選択が増えているかもしれない

しかし同時に、物語を積極的に消費しない人も増えているのではないでしょうか。
現実がすでに重い・・・仕事、社会問題、経済不安、人間関係。そこに架空の怒号や復讐劇を重ねる余力がないと考える人もいます。
これは冷めているのではありません。むしろ、現実に真面目に向き合っているからこその選択です。
昭和のように「映像が足りない」時代ではなく、今は「感情を使いすぎる」時代なのかもしれません。
5.AI生成時代と、フィクションの揺らぎ
さらに、最近はAI生成画像や映像が現実と見分けがつかないほど精巧になってきました。それが事実のようにSNSに投稿され、拡散されることもあります。
現実だと思って見た映像が、実は生成物だったと知ったとき、人は落胆し、消耗します。
「何が本物なのか分からない」という感覚は、フィクションとの向き合い方にも影響を与えるでしょう。
これまで私たちは、「これは作り物です」という前提のもとで物語を楽しんできました。しかし現実と虚構の境界が曖昧になるほど、あえて虚構に入っていく動機は弱くなる可能性もあります。
6.物語を見る人も、見ない人も
物語は、人を救うこともある。
物語は、人を疲れさせることもある。
それは、どちらが正しいという話ではありません。
昭和の映画館で涙した人も、現代の配信ドラマに熱中する人も、それぞれの時代の重さと向き合っています。
そして同じように、物語を見ないという選択も、また一つの姿勢ではないでしょうか。
■ 結び
実は、筆者には物語を見る動機がありません。
それは冷めているのではなく、現実と向き合うことで精いっぱいだからです。
けれど、物語に救われる人がいることも知っています。
昭和が「物語を求めた時代」だったとすれば、現代は「現実だけで満ちている時代」ということがいえるかもしれません。
その中で、見る人も、見ない人も、それぞれが自分の心の容量に合わせて選んでいます。
それだけのことなのだと思います。
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