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ああ無情_負け組は最初から決まっていた!納得いかないキレイごと言うな

先日、とあるFMラジオの番組を聞いていたら、女性パーソナリティ(モデル・タレントの女性)がこんなエピソードを話していました。

「キャンプに行った際、醤油を忘れて困っていたら、近くのイケオジグループに助けてもらいました~♪」と。

ここで外見の評価は必要ですか?

一方、ブサメンたちは、親切にしたとしてもどうせ歓迎されないから、と背を向けてしまうかもしれません。 こうして、外見に起因する様々な格差が生じていくのでしょうか。

根底にあるのは無自覚の階級意識

このラジオパーソナリティは、話に色を付けるため、親切にしてくれた人たちを持ち上げるために、「イケオジ」という表現を使ったのかもしれません。

しかし、同時に「親切は外見の良さとセットで価値を持つのか?」、「イケてない男性が同じことをしたらどう扱われるのか?」と、うがった見方を誘発しています。

この女性パーソナリティ本人に“悪意のあるおごり”があったとは限りませんが、“外見選抜された世界で生きる人が無自覚に身につける階級意識”が働いていたように思います。

本人がそれを口にしなくても、話の構造そのものが 「美形同士の世界の温かい交流」 を正当化しています。

ここには、無自覚な階級意識が潜んでいます。

美しい側にいる人は“温かい世界”を生き、外見で不利な人には“冷たい世界”が待っている。 しかし、それを美しい側の人は実感しません。

なぜなら彼らは、「外見が良いから得をしている」という現実を、 意識する必要すらないからです。

選ばれし者のアピールのように聞こえる

外見で優遇される世界に住む人は、日常の出来事を語るときも、 そこに無意識の階級意識が滲み出ます。

“イケオジに助けられた”と語るとき、それはただのキャンプのエピソードではなく、「私は美形が自然に集まる世界に属している」という“選ばれし者アピール”にも聞こえます。

逆に、その同じ親切を“外見が冴えない男性”がしたなら、その話は「ほっこりエピソード」にはならないでしょう。 むしろ「少し怖かった」というオチすらつくかもしれません。

外見が人間関係のスタートライン・・・ああ無情

こうして外見が、人間関係のスタートラインを決め、好意・警戒・感謝の濃度さえ左右してしまいます。

外見の良し悪しは、人格や努力とは無関係なのに。外見で得をする人は、自覚しないまま温かさを享受し、外見で不利な人は、努力しても報われず社会の隅に追いやられます。

それでも世間は、「見た目より中身」と言って耳障りの良い正義を語るのです。

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